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最先端の日本酒と料理のペアリング
※20歳未満の者への酒類の販売はいたしておりません。
日本酒といえば「燗」をつける飲み方が特徴的ですが、「燗っていつからつけるようになったのだろう?」と素朴な疑問を感じたことはありませんか?この記事では、燗酒の歴史をまとめてみました。ちょっとマニアックな内容になりますが、今日これを読んで頂いたからにはきっと、燗酒が昨日よりも好きになるかと思いますので、ぜひ気軽な気持ちでご覧くださいませ。
燗酒の歴史はとても古く、平安時代のお酒は重陽の節句から、桃の節句までは温めた酒を飲んでいた。
暖房器具が多くなく、燗酒で簡単に暖を取っていたため、寒くならないよう大人数で吞むことも。
燗酒の歴史的なルーツはどこにあるのかといえば、平安時代にまで遡ることができます。というのも、お酒を温めたと思われる「暖酒料炭一斛」という記載が、平安時代の延喜式(927年)に見つかっているためです。お酒を温めた鍋だとされる「土熬堝(どこうなべ)」という文字も、同じ延喜式から見つかっています。また、平安時代に貴族の間で広く読まれた、中国の白楽天(はくらくてん)の詩集『白氏文集(はくしもんじゅう)』にも、「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という有名な詩句があります。『万葉集』の山上憶良(やまのうえのおくら)の『貧窮問答歌』には「・・・すべもなく寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒うちすすろいて・・・」と塩をなめながら、お湯でといた酒粕をすすって暖をとる、庶民の姿が歌われています。いま私たちが「燗酒」と呼んでいる飲み方は大昔の頃からされていたことがわかりますね。
ところでなぜ温め始めたのかというと、これは推測でしかないのですが、当時は暖房設備が現代ほど整っていなかったため、暖を取る方法のひとつとして燗酒があったと考えられます。というのも、室町時代の有識者であった伊勢貞順の家言『貞順故実聞書条々』には「9月9日から3月2日までは燗」と記録されており、寒い時期に燗が好まれていたことがここから読み取れるためです。またその他に考えられる理由としては、江戸時代のお酒は、現代ほど精米技術が発達していなかったために、温めることで酒質の悪さをごまかしていたとも考えられます。
江戸時代にさしかかろうとする頃になると、燗は寒い時期だけではなく、一年を通してつける習慣が生まれ始めました。安土桃山時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書『日欧文化比較』にて、「日本では(お酒を)飲むとき、ほとんど一年中温める」と残しています。また、実は東洋医学からみた健康面からも、燗酒に対する支持が確認されており、江戸時代の儒学者貝原益軒の著書『養生訓』では「酒は冷たくしてはいけない。生ぬるいのがいい」と記しており、さらに『大和本草』では「(中国の学者曰く)酒は熱くして飲むのがいい」と強く推奨する記述が残っています。
江戸時代中期には外食文化が発展し、居酒屋も激増しました。燗徳利もお店で登場するようになり、一気に大衆化が進むことになります。また、この頃から関西から関東へ運ばれる「下り酒」がブレイクし、その中でもとりわけ「正宗」や「剣菱」に代表される灘や伊丹のお酒が人気を博しました。当時は、そもそも造られるお酒も燗に向いた酒質でした。
明治時代からは、西欧からの技術導入によるお酒ブームの煽りも受けて、燗酒は一気に民衆に広がりました。この頃の日本酒造りも、燗をつけることを前提にして味が設計されるほど、燗酒が当たり前でした。さらに、西欧の技術が導入されたことにより安定した酒造りが可能になった結果、年々醸造量が増加していきます。一時期は国の収入の約3分の1以上が酒税によるものだったといいます。この時代は多くの文豪、歌人が酒を愛していたことでも有名で、「文壇と燗酒」の間にも多くの歴史があります。例えば、石川啄木や若山牧水は燗にまつわる作品も多く詠んだと言われています。また『夜行巡査』、『高野聖』で有名な泉鏡花は大の燗酒好きで、アツアツになるまで煮込んだ燗を好み、徳利を指先でつまむように持って飲むのが好きだったと言われています。あまりの燗酒愛から、文壇では「泉燗」という言葉まで流通させたとも。
戦後、お酒は海外からの輸入品に大衆の注目が向くようになり、これまでの日本酒熱はひとたび、下火になります。さらに、当時は高度経済成長の波に乗ってお酒の消費量こそ増えたものの、バブル期ならではの乱暴な飲み方が横行する時代でした。とにかく飲みざかりな世間でしたから、効率よく大量にお酒を提供することが重視された当時の居酒屋では、燗酒も必要以上に高温に設定した機械をつかって、必要以上に大きな徳利で提供するようにも。あらっぽい方法で提供されるものですから、「熱かろう悪かろう」と言わんばかりに、燗酒に対するイメージダウンが進んでしまいました。
代わりに燗酒の対極として淡麗辛口の冷酒が評価されるようになり、当時並行して起きていた地酒ブームも相まって「八海山」「久保田」などが高級酒として台頭し、「いい酒は冷やで飲む」という価値観が生まれました。
バブル崩壊まで、燗酒は窮地に追い込まれます。
しかしそれでも折れないのが職人魂。下火ながらも、「燗にして美味しいお酒が一番良いに決まってる」と信じ続けた職人に一筋の光が差したのです。代表例としては、神亀酒造の小川原良征氏と元鳥取県工業試験場技官の酒造技術者である上原浩氏による動きが挙げられます。上原氏はかねてより「酒は純米、燗ならなおよし」と提唱しており、その信念に小川原氏も共鳴して「燗上がりする純米酒」造りに力が注がれました。この動きに賛同する蔵元や酒販店も増え、ひとつのモメンタムを形成しました。その結果、冷酒では示しきれない日本酒の奥深さを思い出すかのように、あるいは新しく発見される形で、再び燗酒への支持は集まり始め、燗酒は返り咲きしました。それまでの冷酒ブームに「どうだ!」と言わんばかりの存在感を示すように。
海外のソムリエやシェフ達まで、日本酒を自らプロデュースをする事も。 料理との相性の良い日本酒を生み出す事こそ、世界的ブームとなるきっかけの1つとなる。
日本酒を飲むきっかけの最大要因は日本そのものへの興味によるものだという事も。自国の料理と組み合わせている外国人も多く存在する。
近年、燗をつけて飲むことを意識して造られたお酒も多数登場しており、酒質も多様化しています。技術もますます発達し、造りや原料の取り合わせが無限に増えた今、従来のように燗に向いているお酒か、燗に向いていないお酒かという区分を越えて、温度や酒器、ペアリングなど様々な変数によって思わぬ発見と巡り会える可能性も高まっているといえます。なんと、料理にあわせて温度を最適に調整する「燗付け師」なんて人も続々と登場しているのだとも。
お酒は常温以上の温度帯の方が広いですし、日本酒は海外にも注目されているので、海外料理との掛け合わせでもさらに燗酒の可能性が開花するかもしれませんね。これまで見てきたように、燗酒は時代にあわせて多様化・進化の一途をたどっています。今後の日本酒の未来は燗酒が拓くといっても過言ではないかもしれません。